9月29日今城塚歴史散策

◎今城塚古代歴史館

古墳時代から終焉迄をジオラマ模型と映像で紹介。

見どころ

・今城塚古墳で出土した埴輪

・安満宮山古墳から出土し、中国・魏の年号、青龍3年の

銘の銅鏡100枚を卑弥呼に送ったレプリカ

・石棺(阿蘇のピンク石・高砂産竜山石・二上山凝灰岩)

・阿武山古墳(被葬者藤原鎌足?)

◎今城塚古墳

史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350メートル・総幅約360メートルをはかり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。

 今城塚古墳は、531年に没した第26◎代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。埴輪祭祀区(はにわさいしく)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。

なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用されたことに由来し、江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。

埋葬施設は、鎌倉時代に行われた盗掘や、伏見地震による地滑りのために、失われていました。石棺の破片や副葬品の一部が発掘調査で出土し、その一端が明らかになってきています。

◎継体天皇

 

日本書紀によれば継体天皇は第26代の天皇で男大迹王(おほどのおおきみ)といい彦主人王と振媛との間に生まれた。

近江国高島郡三尾野(現在の滋賀県高島市)を本拠にした地方豪族であった父彦主人王が亡くなると母の故郷である

越前国高向で育てられ、5世紀末の越前地方を統治していた。

 

507年に崩御した武烈天皇に跡継ぎがいなかったため、大伴金村らが協議し、応神天皇から5代目の子孫にあたる男大迹王を推挙した。

 

樟葉宮(枚方市楠葉丘の交野天神社付近)で天皇に即位する、

武烈天皇の妹である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后にする。

 

512年、筑紫国造磐井の乱が勃発。継体天皇の命を受けた金村が物部麁鹿火を九州に派遣しこれを制圧した。

 

継体天皇は樟葉宮での即位後、山城国筒城宮、弟国宮を経て20年後にして大和の磐余玉穂宮に遷り、

ようやく大和入りを果たした。しかし、その5年後、82歳で崩御。